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大奥とは
大奥は将軍家の子孫を絶やさないことを目的に1607年(慶長12年)に徳川2代将軍
秀忠によって作られ1618年(元和4年)元旦に発令された「大奥法度」によって一
般の社会から完全に隔離された。
1人の将軍に500人から1000人もの女が仕えるという世界でも類を見ない巨大なハ
ーレムであった大奥。
そこに入る女は中で起こったことを一切他言しないという血判を義務づけられて
いたため今でもその実態は秘密のベールに包まれている部分が多い。
女中達は完全な住み込み制で将軍に仕え、将軍や御台所にお目通りを許されてい
た旗本や御家人の娘から成る御目見以上の女中達は親の死に目以外には外に出る
ことを許されない一生奉公だった。
特に将軍の寵愛を受けた者は死ぬまで大奥を出ることを許されなかったばかりで
なく、将軍亡き後は桜田の御用屋敷に移り住み、位牌をいただきただただ将軍の
冥福を祈るのみという生活に入ったのだった。
だが百姓や町人の娘で構成された御目見以下の女中達には「宿下がり」という外
泊許可が年季に合わせて与えられ、結婚することも出来た。
宿下がりの日数は奉公3年目で6日、6年目に12日、9年目に16日だった。
御目見以下の女中の多くは将軍のお手付きになるなどという野望を抱いて大奥入
りしたわけではなく、単なる花嫁修業や「はく」をつけるために奉公に上がった
のだという。
当時大奥で勤め上げたことは一種のステータスとされ、大奥経験者には縁談が殺
到したという話も残っている。

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